S氏自身がそれまでの技術の常識を破壊することで成功体験を積み重ねてきたのだ。
だがレーシングヵーの高速回転エンジンは一般車とは比べようもない高熱を生じる。
それを走行風だけで冷却できると考えるのは無謀ですらあった。
K是志氏にとっては忘れることのできない一言である。
後にHの3代目社長となるK氏の苦悩は、このとき始まったと言ってもいいかもしれない。
帰国したK氏に、S氏は引き続き空冷エンジンの開発を命じた。
S氏の口癖は、的パーセントの失敗のあとに1パーセントの成功があるというものだった。
「お前は人殺しだ!」NはKをどなりつけた。
KがSの命令でエンジンの設計をやらざるを得なかった背景は十二分にわかっていたが、思わず口をついて言葉が出た。
最後は業務命令である。
拒否すれば会社を辞めるしかない。
常識に囚われていては技術は進歩しない。
しかし、常識を無視すれば技術者はギャンブラーのような存在になる。
ましてや人命に関わる技術なら殺人が起きても不思議ではない。
アップダウンの激しいルーァンのルートをよく冷えないエンジンが長時間走行する危険性を、はたしてS氏はどれほど知っていたろうか。
このときN氏の傍には、当の空冷エンジンを設計したK是志氏(後のH3代目社長)がいた。
N氏にしてみれば、S氏が放った密偵にも見えていたかもしれない。
悲劇は先頭車が3周目を回ったときに起きた。
カーブを曲がりきれずにHのマシンは黒煙を吐き出し、ドライバーは黒焦げになって死亡した。
N氏がK氏に投げつけた一言はその心情を表している。
になるというのがその成功体験の強靭さである。
さすがにK氏もS氏に異論をぶつけるしかなかった。
ルーァンの事故の原因解明は、肝心のマシンが焼失した以上、決め手をつかめないままだった。
しかし、K氏は、空冷エンジンを搭載したクルマに問題があった可能性が強いと言った。
それでもS氏は動じなかった。
若い技術者が自信喪失するのは珍しくない。
ときがたてば失敗から必ず貴重な示唆を見出すはずだと思っていたのだろう。
静かに、しかし断固とした口調でこう言い渡した。
「K!お前の仕事は空冷で世界一のエンジンを作ることだ」この直後、精神の異常を自覚したK氏は、失践事件をおこすことになる。
まったく売れなかったSの自信作。
今日でもルーァンの事故の真因は不明のままである。
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